Sunday, March 7, 2010

栄華の日々(パリ便り)

夫の家族は元伯爵家だけあって、年配の方の思い出話はスケールが違う。特に義父側は義祖父(もう他界して長い)の代まではかなり裕福だったようだ。パリの一等地にシャトーのような居を構え、イタリアとの国境辺りには大きなシャトーがあり、そこで大晦日には舞踏会をしたのよ、と大伯母が夢見るような眼差しで話してくれる。
彼女は今は70代前半。昔はさぞかし美しかっただろう、今も片鱗を覗かせる。着道楽で、お金がなくなってからも、シャネルスーツを新調する度に親に金の無心をしていた、と他の人から聞いているが、当時のファッションについて語るとき、子供のコートを買いにロンドンに行った時の話をするときなど、目がキラキラしている。

もっと遠縁の方々からもこの手の話を良く聞く。異色(外国人で彼らのクラスとは関係ない外部者)の親戚ということで、皆私に対してはガードが弱いようだ。
この高貴な方々、自立するまで、というか、自立することなく親の資産に守られ育った人々である。健康、そして美貌にも恵まれ、子宝にも恵まれ、戦争は免れ、その後の高度成長期を生き、と、タイミング的にも運が良かったと思う。そして今も結構なプチ・ブルジョワだし、文句ない人生じゃないか。
それでも、今を語るときは「あぁ、嘆かわしい」、といったトーンになる。その歳になって、住むところもあって、年金ももらって、貯蓄もあるのだから、もう良いのではないか。私なんて、彼らより狭いアパートに家族四人でひしめき合って暮らし、収入さえもないのよ、と言いたくもなるが、彼らはまだまだそうは思っていないようだ。
そして、お金の話をするとき、人はなんでああも虚ろな表情になってしまうのだろう。いつも頭の中で銭勘定している自分に反省する瞬間である。

あぁ、それにしても本当、こわい。人間、一度栄華を味わってしまうと、後はモノクロに見えてしまうのだろうか。
虚栄心が強い自分に、この「こわさ」を忘れないように、くだらない価値観に目隠しされないように、と言い聞かせるが、他人の経験は実にならないことはよーく知っている。多分、この先も、この教訓を思いっきり忘れて、バカを丸出しにする瞬間が何回も訪れるのだろうな。トホホ。

「持たざるものは幸せ」というゴスペルを心に刻みつつ、引き続きイノセントな聞き手役を演じる小生なのである。

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