先日、私らしくもなく、「ガン、50人の勇気」という、ヘビーに違いない本を読んでしまいました。普段はハッピーエンドでないと読まない、観ない私なのに。これは「人生の後半に入った症候群」なのかもしれないけれど、残りをどう生きるか、ってことを考えると、終わりを知った人はどう生きたのか、知りたくってついつい読んでしまったのでした。
泣かないように、と思いつつ、これが泣かずにいられるか、っていう言葉がそこらかしこに散りばめられていました。
「(明日地球に終わりがくるとしても)私はりんごの樹を植える」というのは宗教改革のマルティン・ルターの言葉だったといわれていますが、「明日この人生の終わりがくるのでも、私は働き続ける」、ということなのでしょう、皆さん使命感を持って抱えていること、それは仕事だったり、育児だったり、に没頭されます。
話がそれますが、ルターで思い出しました。
その昔、幼馴染のY子は英語が大の苦手でした。
大学一年のときの学期試験、英語のリーディングが見事にチンプンカンプン。なんとか読めたのが、マルティン・ルターという名前。ヤッタ!これなら受験のときに仕込んだ世界史で知ってるわ、と宗教改革について覚えていることをだらだらと書いたと。
But! これにはもちろん落ちがありまして、おなじMartin Lutherでも、Martin Luther King Jr.のことだったらしく、思いっきり再履になったそうです。
一番面白いのは、この彼女がその後国際結婚で英語の生活をしていること。(あんただって、仏語ぎりぎりだったじゃない、っていう声が聞こえそうですが・・・)
いやいや、人生って面白い。
もうひとつ、やっぱりそうなんだ、と思ったのが、最期の言葉は「ありがとう」です。
りんごの樹、そういう姿勢っていいと思います。ありがとうを連発する人生もいいな。
毎日りんごを植え続ける、そういうヒトにワタシもなりたい。(ならねば!)
もし、西洋にも姓名判断があったらMartin Lutherは革命家の画数かも!?
ReplyDelete自分の命の終わりの日がわかっても、自分のやるべきことをやり続けるってどうしてだろうか?と考えると、この世でやっていることが決して消えて無くなる物ではないこと、形はなくとも、その思いや経験がどこかに続いていくことを知っているからだろうと思います。死も決して無になる終わりではないことを知っているからとも思います。
死期が分かったら遊びまくりそうな気もする私ですが!
調べたら、キング牧師のお父さんがルターから名前をとったそうです。名前の呪縛あるなぁ。
西洋人は親と同じ名前を息子につけたり、ジュニアとか付けたりして面白いですね。日本の場合、漢字を一文字もらったり、数字で順番を示したりしますね。そう、今まで私が知った名前で一番面白い名前だった人は、銭高銭男という人です。銭高組という上場会社の社長です。親は冗談がキツイ人だったんですかねぇ。人柄は知りませんがお金にうるさい感じがしますね、この名前は。。
ReplyDelete私も知ってます、すごい名前。社会学の教授で、名字は普通なんだけど、名前はカタカナで「アジオ」、そしてな、なんとその方のご兄弟は「ウニオ」!名付け親はサザエさんファンかとおもいきや、アジオは、アジアか、オリエント、ウニオはユニバースか何かのエスペラント語読みだということで、ご両親ももちろんアカデミックな方らしく。
ReplyDeleteNemoさんもコメントありがとうございます。
この本にも引かれていたのが、井上靖の「化石」という本には、末期ガンの主人公が化石が埋め込まれているような大理石のロビーで人待ちしているときに、太古の流れの中で人が生まれ、死んでいくと言うのは、自然の摂理なんだ、と実感もって感じるくだりがありました。それを読んだときに、人間って自然・宇宙の産物なんだ、とはたと気付いたことがあります。
死が無でないという確信をもって終わりを迎えたいです、私も。