Sunday, November 14, 2010
言葉の力
昨日は雨がぱらつく日曜日。近所の教会に立ち寄ってみました。
モダンなデザイン、小さいのに光が一杯採りいれるようになっていて、こういうのもいいじゃない、と思うのですが、夫はあまり好きではないようで。
というのも、以前この教会付きの神父は、若いのに愚痴が多い人で、いつもフランス人お得意のAcid Joke、皮肉まじりのスピーチでちょっと疲れるなぁ、とこの教会に良い印象を持てずにいたのです。
と、思っていたのは私達だけでない??果たして飛ばされたのでしょうか、カタールから帰ると新しい神父様に代わっていました。
着いたときは、ちょうど家族向けミサが終わったところだったようで、教会から出てくる人々に逆流しながら二階席に向かいます。
同じく二階の出入り口の上で、盲目のオルガニストが無心に弾いています。二階から聴くといつもの上から降りてくるオルガンとはまた違う音響。そんなオルガン、兄猿の目が釘付けに。彼は、「聴く」と「見る」の動詞を良く間違えるのですが、きっと今も「目で聴いて」いるのでしょう。
上から、下の人々が退室して行くのをみます。知っている人いるかな。
10~12歳の、背丈に顔が追いついていない、ひょろっとした少年が祭壇の前ですばやく膝まずき頭をさげてから退室して行きます。
イギリスでは良く見かけたこの仕草、パリでは滅多にみかけません。ちょっと感動。
さて、ミサが始まります。まだ顔も知らぬ神父が入ってきて、「オープニング」の祈りを、力強く唱えます。なんて仰ったのか、思い出せませんが、「今日は喜びの日(日曜日は神が復活した日だから)。神は私達に自由を与えてくれました」といった内容だったかと。何故かミャンマーで解放されたアウンサンスーチさんのことを想いました。本当の解放、そして自由でありますように。
それにしても子供がちょっと愚図っただけでも咳払いしていた前任者と、随分違うわ~。
フランス人で「パブリック・スピーチ」が上手な人って少ないと思うのですが、この神父様は素晴らしい。前向きで、シンプル、ストレートなメッセージ、それを感情を込めて訴えます。
「『働くもの、食うべからず』という聖パウロの福音についての解釈、これは現代人お得意の理論、働かないなら飢えてもしょうがない、といっているように思われているが、もうちょっと掘り下げて考えよう。
私はこう思う。
ここで言う『働くこと』とは祈ること、信じること。
では、『食う』、何を食べるのか。神のお恵みを頂く、喜びを噛み締める、生きる。こういうことだと思う。
今日を生きる、明日を信じる、祈りを信じる、これが聖パウロの福音だと思う」
・・・子供達も大人もしーんとして聴いています。
まだ続きます。
「神は恐れるな、という。私がいるから恐がらなくても良い。これは貴重な贈り物だと思う。恐怖心で司られると、間違った道に行ってしまうものだ。」
うんうん、と、ブッシュJrがテロの脅威を理由に、イラク侵攻を正当化したことなど、一人連想します。
「怖がらなくて良い。どんなときも私がいる。独りじゃないから怖がらなくて良い。怖がらずに毎日を、今を思う存分生きて欲しい・・・(後略)」
最近、5歳の兄猿は恐怖を知り始めたようで、それは暗闇が怖いとか、一人が怖いとか、あのドアの木目がトラに見えて怖い、とか、そういうレベルの話ですが。あと、「死」という概念も薄っすらわかってきたようです。ほら、白雪姫が林檎を食べたあととか、オオカミが羊を食べるとか。「で、死んじゃったの?」というのが彼の新しいボキャブラリー。
今までは無知ゆえに無垢で恐怖を知らなかったのが、歳をとって、想像力がついて、今までに蓄積された少量の知識(ポニョとか、ドラゴンといった)をリンクさせて、頭の中で恐怖を生んでいるのでしょう。
大人になると死という究極の恐怖があって。でも、恐れなくてよい、付いていてあげるから、と神は言う・・・ふんふん、と考えてしまいます。
今までは素通りしていた言葉がこの神父様の声を通して聴くと、心に届いてくる。慰められるものがある。
こういう人がいるんだ。
沸々と喜びが沸いてきた日曜日でした。
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家族揃ってのミサ礼拝、微笑ましい、そして僕たちよく我慢できましたね。
ReplyDelete修道院での長いラテン語のミサでも 若い両親に連れられた小さなこどもたちが最後までおとなしくしているのを見ると感心し、嬉しくなります。
日本の甘やかされた子どもたちできるかしらなどと考えてしまいます。
"N'ayez pas peur" ジャンポールⅡ教皇がブルターニュにいらした時、私たち聴衆に仰った言葉で特に印象に残っているのがこれでした。
このタイトルで本も書かれていますよね。N'ayez pas peur、Be not afraid・・・一番聞きたい、言ってほしいアドバイスの言葉のように感じられます。
ReplyDeleteロンドンでのラテンミサで笑える(?)光景がありました。偶然にもフランス人だったと思われます。お父さんは至極敬虔な感じで、ちょっと大げさに拝んだり、してました。そして6歳くらいの男の子。椅子の下に隠れたり、後ろの私たちにアカンベーしたり、落ちつかない。私たちとしては、子供があれだけ騒ぐのなら、外に出るべし、と思ったのですが・・・。
それでもお父さん、Communionにつれていく。すると、この坊主、祝福を受ける番がくると、な、なんとおもちゃのピストルを出して、司祭を打つまねをしたんです!司祭は落ち着いて(慣れているのでしょうね~)、坊主のピストルを取り上げ、Blessingをしてあげる。坊主は「僕のピストレ~」と叫ぶけど、お父さんに引きずられて去っていきました。
教訓、公の場で子供の限界を試さない。私たちも子供がもじもじしだしたところで抜けました。おかげで私もロティを焦がさずに済みました。
茶々を入れてすまないが、働かざるもの食うべからず、ではないでしょうか?最近、ワインをいただくときに少し罪悪感があるのは、この教訓のせいだと思う。
ReplyDeleteワッハッハッ!折角面白いから直さないで置きます。
ReplyDeleteいやいや、働いていますよ、Jubiさんも。母でいる、妻でいる、女でいること事体が働いているようなもの。